夢を見る。それは酷い耳鳴りと、高らかな沈黙の悲鳴をともなって。



 暑い夏の日と、身も凍えるような寒い日に見る夢。いつもの白い単衣に青い帯を巻いた姿で見上げるのは、高い石段の向こうに見える血を滴り落としたかのように赤い鳥居。周りは鬱蒼とした森に囲まれその鳥居の前にはその都度決まって狐のお面を被った少年がいた。羽織袴で、こちらに焦点を合わせたままでその場を動かない。どこか紅みを帯びた薄茶色の短髪が風にゆれ、緩慢な動作で仮面を取る。そこから覗く顔を見ることが出来ない儘、どこか淋しそうな、今にも泣き出してしまいそうになる程の悲痛な空気を振り払って、夢は途切れた。

 次の瞬間、目を開けるとそこに広がるのは古めかしい樹の木目が刻まれた天井だ。視線を横に逸らすとそこには朝餉と薬包紙に包まれた薬と水が置かれていた。黒い盆の強烈な色が曇る視界でもよく映る。ふと視線をまた天井に移すと、煌びやかな桃色の着物を纏った少女がこちらを覗きこんでいた。艶やかな黒髪を揺らし、にこりと可愛らしく笑みを浮かべ口を開いた。

 「まあ。また見たの?あの夢。ほら、汗が出てるわ」

 少女は自分の頬をそっと触れてからかうような視線を送った。いや触れたといっては差支えがあるだろう、実際彼女は触れていない。触れることが出来ないといったほうが正しいか、目の前の少女は生きておらず、実体を持っていないのだから。

 「・・・・・・・・・・・君は、いつも私を見ているんだね。」

 まだ、朝早いのに。と上半身を起こし少女に言うと、けらけらと笑いながら少女は「“かみさま”に時間は関係ないのよ、貴方はよくご存知でしょう?」と当たり前のように言った。そう、彼女は“かみさま”だ。八百万の神、彼らはどんな場所にもいる。彼女はこの建物に住まう存在、どうしてだか自分は小さな頃から彼らの存在を感じることが出来た。桜のかみさま、雪のかみさま、風のかみさま、数え上げればきりが無い。当然それらは普通の大人には見えないし、当然自分は村では異質な存在として扱われた。だがそれから暫くして村に大津波が来ることを予言して、実際それが起こったときから“神に愛された子ども”としてこうして小さな神社に置かれたのだ。また災害があるときは予言してくれと、何度も頭を地に打ち付けられて。

 ここから出たいと思わないの、と少女が緩やかに首を傾げて尋ねた。それに小さく首を縦に振って応えると相手は至極嬉しそうに辺りを跳ね回る。その様子に、表情が柔らかくなった。彼女の居場所はここしかない、だからこの建物が崩れぬ限りここの付近を離れられない。孤独な神社は子どもを得てその力を強くした。布団から出て緩やかに立ち上がり、打掛けを羽織って縁側に出ると、一面が雪の白銀に埋れていた。うっすらと青い影を帯びて、穢れ一つ無いその光景の向こうを、青々しい竹林が覆う。足を下ろして、下駄を軽く足の指先で蹴った。カラン、と音を立てて石造りから落ちた下駄。鼻緒の赤が雪に映えて見えた。そして自分の眼前に、少女が躍り出る。降り積もる雪を喜ぶように、くるくると桃色の振袖を揺らしながら、軽快な足取りで竹林に消えていった。




 しんしんと積もる白雪の声を聞きながら、柱に体重乗せて目を瞑った。一瞬沈黙の音が耳をつんざいたがその直ぐ後に空から落ちてくる雪が話しかけてきた。口と言語を持たない彼らの声は、耳で聞くというよりも頭の中に言葉が浮かぶという方法で意思を伝えてくる。暗闇の中に白い文字が浮かぶ。どうやら、この神社から少し離れた場所にある神域が壊されるという話らしい。心配そうに必死に呼びかけてくる雪の声に対し、ゆっくりと口を開いた。

 「・・・・大丈夫。それなら私から言うから・・・うん、心配しないで」

宥める様にそっと言うと、雪は感謝の言葉を漏らしてそれ以上言わなくなった。そうしてまた静寂が訪れる。音の凍りついた空間の中で緩々と視界を開くと、ちょうど寒牡丹の花弁の赤が白い地面に落ちて埋れていくのが見えた。静けさの象徴とも取れる鼓膜を叩く耳鳴りも、心地よかった。

 (・・・・・まただ。誰かが、また)

 ふっ、と目を開けてみる。そこには雪の上では鳴るはずの無いカランカランという下駄の音を響かせて、縹色の浴衣を身に纏い、狐のお面を被った少年が立っていた。あの夢に住む、薄茶色の髪と狐の仮面を持った人物が正にそこにいた。驚いて双眸を丸くしていると、少年はこちらに向かって問い掛けた。「おれのこと、見えるの」と、ただそれだけ。その問いに首を縦に振ると、今度は少年が眸を丸くする番だった。そして暫くして少年はこちらに歩み寄り、お面を頭の後ろのほうにやって、じっとこちらを見つめたまま夢の通り微動だにしなかった。寂寥感を帯びた表情に、思わず言葉を紡ぐ。見覚えのあるその表情に、僅かに眉をひそめた。

そうだ、どこかで見たと思ったら。
今の彼は、昔この神社のかみに会った時の彼女のものと同じだ。

 目の前の少年は、俯いた顔を上げる。その表情は笑みに染まっていて、こちらに手を差し伸べた。それは儀式などで向けられるような整然さを持たない、何とも無邪気で単純なもの。

 「遊ぼうよ。雪降ってるから、雪だるま作ろう」

 ね、どうかな。と押されて言われるが、首を縦に振ることは出来なかった。神が祀られているこの場所に、雪だるまなんて作れない。だからここから離れられない自分は、遊ぶことが出来ないのだと、理由を話すと、少年は深く俯いて残念そうに「君は、自由じゃないんだな」と呟いた。気を落とす相手は少し間を置いて勢いよく顔を上げた。
「じゃあ、自由になったら。おれと遊べる?」
こちらの顔色を伺うように尋ねる少年。どうやら気を悪くした様子が無いらしい、そう思い安心した。相手の言葉に対して安心感を与えようと微笑んだ。
「うん。いいよ、私が自由になったら一緒に遊ぼう」
そう言い、相手の手に触れる。触れられるということは、彼は“かみさま”ではないのだろう。自分の言葉に満面の笑みで応えた少年は、「ずっとだよ?朝から夕方まで、ずっと」嬉しそうな表情とは裏腹に不安の入り混じった声で念を押す彼に、緩やかに首を縦に振った。
「・・・・ありがとう、そういってくれて。じゃあ、約束しよう。君が自由になったら・・・」
段々と、何故か頭に霞がかかっていて相手の言葉をよく呑み込めない。狐につままれたように、ぼんやりと視界が曇っていくのが見えた。よく考えもせずに言葉が口から零れていく。

「・・・・・ん、約束。“指きりげんまん”しようか」

そうして小指を重ねてみると、一瞬にして目の前が夕闇色に染まった。先ほどまでの雪の白は何処にも見当たらず、ただ鬱蒼とした森が夕闇の色を吸っている。緩慢な動作で空を仰ぐと、微弱な光源を持った雪空は消え、仄暗い宵が覆っている。内心驚くが、辺りを見回そうにも思考は霞み、体が重い。仰ぐ動作すらやっとのことなのだ。視界の中心では、ゆびきりを終えた少年が、宙に浮かぶいくつもの赤みを持った光を放つ提灯を携えて、狐火に消えていった。
視界が暗転し、次に目覚めた先に待ち受けていたのはその日の朝の光景。



 それから暫くして、また夢を見た。目の前と背後には真っ赤な鳥居が幾重にも重なり道を作って、遠くから子どもの声が聞こえてきた。それは、あの少年のものと酷似していて。鞠をつく音が耳に残る、遠い憧憬が鳥居の向こうに見えた。

“通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ“

高らかな蝉の声と、カランカランと下駄の音を立てて。ご神木に巻きついた注連縄に触れたとき、此処が下界から遠く離れた神域なのだと知る。この背後に佇む無数の鳥居を、自分はもうくぐってしまったのだと。ここは現世ではない、神域でもない、きっと黒と白の混じる灰色の場所なのだ。

(ああ・・・だから“彼岸”なんだ。此岸からは手が届かない。
生身では行くことのできない場所。)

 河の向こう岸にある世界、手を伸ばしても届かない深い暗闇をもった河。生きている間は渡る術を持つことの出来ない世界、そこに佇むのは絶対的な静寂。
 昔、書物で見たことがある。鳥居とは神の住まう神域と、人間が住む俗界とを区別する出入り口のようなものなのだと。煩悩が燃え盛り火が渦巻くその姿から火宅と呼ばれる現世と、それらから開放された神域は区別されなければならないのだと。だから、生身で行くことは出来ないのだろう。身体を持つことは穢れを持つことだと詠ったのはどの書物だったか。ふと視線をやると、鳥居の向こうに見える黒いものが蠢いていた。けらけらと動物の笑い声が辺りを覆いつくし、耳元で「おいで、おいで」と呼びかける声が聞こえる。この声を、自分は知っていた。

 おいでおいで、狐の子。
 帰って、おいで。朱色の格子が、ずっとお前を待ってるよ。

 そうして、また無意識の海に沈む。気付けば海に身を委ねていたが特別足掻く事も無く、ゆっくりと落ちていく最中、太陽の光に混じって岸辺に人が佇むのが見えた。紅い鳥居、それらを背後に映える紺色の袴着を来た薄茶色の髪の男の子。狐のお面が水面に浮かぶのを見た。ゆっくりと降下していくお面。いつのまにか水面には幾つもの灯篭が流れている。そして、そこで夢は途絶えてしまった。




 ふと、顔に何かが滴るような気がした。自分以外にこの神社にいるのは付きの女性と、かみさまかあの少女だけだから。だからきっと、触感のないこの涙は。

「ねぇ・・・・どうして、約束してしまったの」

 責める様な口調で少女が自分を覗き込んでいた。余りにも突然のことに覚醒するまでの時間はすぐに訪れた。眸を丸くしてその言葉の真意を尋ねると、少女は口を噤んで涙を零す。自分の袖に顔を埋めて子どものように(実際、彼女の姿は子どもなのだが)、ひたすら泣きじゃくった。しきりに、どうしてと呟く少女。理由を知らないことに申し訳なくなって、そっと頭を撫でたそのとき、障子が開く音が聞こえた。おそらく巫女装束を纏った女性が食事を運んできたのだろう、女性は自分がこんな朝早く起きていることに驚いたと共に、何も無い空間を撫でる自分の姿を見て恐怖に顔を歪めた。震える声で「誰とお話なさっているんですか」と聞く彼女に、「かみさま、だよ」と返すと頭を下げてその場を立ち去った。消えていく背中に小さく、ごめんなさいと言った。
 約束、と言われても記憶に無い。昨日までの記憶は雪を眺めていたことだけしか覚えていないのだ。それから追憶するが、何故だか焦点が合わず霞がかかったように思い出せない。思考めぐらしている中、少女が口を開いた。

「・・・きっとあの子は、あなたを追い続ける。唯一自分を証明することができる、あなたを。赤い鳥居から狐の子を迎えに来るために、夢に、紛れて」

彼女の言葉に、いつもみる不思議な夢が連想されて。
無意識に相手の言葉を返した。
「ゆ、め?」
自分の言葉に、少女は俯いたまま小さくコクリと頷いた。そうしてそのまま、また泪を流す。その様子は、まるで昔見た玩具を取られる子どものようで。どんでん太鼓を取り上げられた幼い子どもは手足をばたつかせ泣き出す。あの子は幼いからこその、果てない欲望を叫び続けていたのだろう。

(じゃあ私は、この子の鞠か笙の笛とかなのかな。
 どんでん太鼓みたいなのは嫌だなあ・・・・)

 不思議と、彼女の自分に対する意識と言うものが気になった。ぼう、と取り留めも無いことを考えながら、ふと目の前の少女は長い年月を過ごしながらもその姿どおり幼いのだということを感じていた。実際背丈も自分と彼女は変わらないのだが、泣きじゃくるほど感情は高ぶらないし、だからといって大人のような適切な判断が下せるような精神は持ち合わせていないという、何とも曖昧な境界線上にいた。
 しがみつかれたその背中を撫でる。実体が無いため撫でる素振りをするだけなのだが、少女曰く“それだけでも撫でられている感じがする”らしい。心持はまるで母親のようだ、自分の母は何処か別の場所に行ってしまったが、それでも漠然と母の温もりやしてくれたことを覚えているし、母とはどういうものなのか、いつでも傍にいた目の前の少女を含む彼らが教えてくれた。
 畳の香りが鼻孔をくすぐる。朝日を浴びる氷柱が万華鏡のようにきらきらと光ってふきのとうが雪の上に薄い藍色の影を落としていた。今が早朝なのだということに改めて気付く、朝餉を頂いて薬を飲まなければこの身体も、もう長くは持つまい。

「ごめん、ね」

 手を少女から離し、だらりと畳に落とし、裾を引っ張られたまま後ろへ倒れた。もう一度枕に頭をつけて眸を瞑ると薄墨色の色紙が張られたような景色が広がる。離れた場所で、少女の泣き咽ぶ声が聞こえた。だがその直ぐ後に耳元に訪れたのは下駄の音。カランカランと段々近づいているのが分かる。どこかで聞いたその足音は心地よさとは別に、胸に迫る圧迫感を持っていた。





 それから数年後のことだ、春の季節となり神社内の桜が満開となった頃。花弁が障子の開いた場所から入り込んで布団から手を伸ばせば届く位置に来ていた。だがもう触れることすら叶わないだろう、既にこのとき自分は人間の身体を持っていなかったのだから。あの時、薬を飲まなかったのが原因というわけではないのだが、あれから悪化していったのは事実かもしれない。否、あの夢を見たときから病は酷くなっていったからどちらかと言うとそちらの所為だろう。不思議と「死」という感覚を伴わない。物に触れることはできるし(生きている人間からこちらは触れられないけれど)、かみさまは相変わらず自分の傍にいた。
いつもと変わらず神社の境内に座って柱に頭を預けて、亡羊と桜を見つめながら時を過ごしていた。遠くにある石段の最上段が桜の花弁に埋まった日暮れの頃、赤い斜光を浴びた桃色の花弁は赤みを一層強めて、はらはら散っていく中に少年の姿を見た。紺色の袴着に紅みを帯びた薄茶色の短髪を桜交じりの風に揺らし、狐のお面を被っている。此方が「誰」と尋ねる前に、少年は不思議そうに言葉を発した。

「ね、いつまでそんなところにいるの?」

 君はもう自由なのに、と首を傾げる姿は心底不思議そうだ。だがその声は、御面の裏では笑みを浮かべているような、そんな幼い響きを持っていた。境内から降りて、木造の階段を降りて少年と同じ地面に立った。

「おれ、ずっと待ってたんだ。君が帰ってくるのを」
「か、えって、くる・・・・って。私は君と・・・」

 初めて会うのにと言うと、相手はそっと眉を顰めた。相手に対して悪いこと言ったかな、と思いつつも聞き覚えの無い事に驚いてか、上手く舌がまわらない。少年はゆっくりと此方に歩を進める。桜の花弁が視界を覆う、まるで自分を守るように。
「でも、約束したよ。・・・・ほら、指きり」
少年は一歩一歩こちらへ歩み寄り、自分の手首を握った。大体同じ背丈で彼が同い年の姿を持つのだと感じる。相手は緩慢な動作で狐の仮面を横にずらした、そこから覗く金色の眸が此方を見詰めた。夢の中で聞いた唄声が、ふと脳裏を過ぎる。からからと笑う声、鞠をつく音、鳥居の向うの子どもたちの足音。

―――おいでおいで、狐の子。
    帰って、おいで。朱色の格子が、ずっとお前を待ってるよ。
 
 (ああ、そうだ。彼は・・・・)

 指きり。霧に埋れた小さな世界が広がる中で、雪の叫ぶ声を遠くで聞きながら結んだ約束。酷く儚く曖昧な言葉で、他愛も無い指の重ねあわせ。それでもそれは、その身が続く限り守らねばならない程に重く、深い誓い。約束は守らなければならない。迫り来る義務感と恐怖感が斑模様に入り混じる。


「君が自由になったら一緒に遊ぼうって。なのに、どうしてそんなところにいるの?」


 そう言って、彼は無邪気に微笑んだ。その表情は、幾年の時を飛び越えて変わらないまま。掴まれた手首に柔らかい温度と彼岸花の香りを感じながら、これからの自分を思う。逃げられない、その言葉が恐怖に濁る思考の海の上で静かに浮かんでいた。段々と頭の中が霞んでいく、もう少し時間を置けば何も考えられなくなるだろうと、何処か人事のように思っていた。ふと、耳元で桜に囁かれたような気がする。それは悲鳴にも似た、まるで泣き声だ。そうして、




(ぐるりと視界が暗転する)



(鬼火が遠くで揺ら揺らと燃えるのが見えた)




(あの時から、こうなることをあの少女は知っていたのだ)


















かみさま、と手を伸ばした。かみさま。