こんな日が来ると、思いもしなかった。けれど、


それは唐突だった。彼女の元へ向かうために、急な坂を自転車を引いてゆっくりと降っていた時のこと。背後でタイヤが地面を擦る音が高らかに響き渡り、反射的に後ろを向けば車体の前面が自分の目の前にまで迫っていた。キキィッ、と音を鳴らし車は走り去る。大きな鉄の塊に体当たりされた、弱い自分の身体は坂を転げ落ちた。勢いよくあの店にぶつかった衝撃で思わず気が飛ぶ。その時無力な自分は、命さえ飛んでしまいそうな感覚すら、ただ呆然と感じることしかできなかった。

「・・・・あ、れ・・・ここ・・・」
車に撥ねられた時が夜だったせいか、目が覚めても辺りは水を打ったかのような静けさだった。誰もいない、孤独な世界、まるであの少女がいる庭園のような。薄い粘膜が自分を包み込むためにぴったりとくっつくような無神経さすら感じる血の感触。喉が潰されたのか気管から這い出るのは身体に捨てられた血液、音にもならぬ空気の流れ。視界は濁りきって、赤いセロハンでも張られたようだ。このまま絶えるのか、ふとそんな考えがよぎる。ポケットを必死で探れば中には固く冷たい金属の手触り。露店で見つけた安物のアクセサリーが、所有者を見つけられず悲鳴を上げているよう。渡す相手を目前にして、息絶えてしまうのか。だが不思議と「消える」の感覚が無い。痛さも何処かに消えて、自分がただ動けないだけのように感じる。
(伝えられなかったな・・・・あの人に、)
彼女といたとき、幸福を感じられたことを。どうしようか、と呑気に茫然としていたとき、視界の端に光が映る。それは自分を庭園と導く、そら美しい蝶。

(なんだ、来てくれたんだ・・・ありがとう・・・)

自分の考えを読み取れるのか、蝶は頷くように上下に羽ばたく。この蝶は、彼女の代わりに外で動く役目を担っているのだろう。何ら迷わずその光に触れた。関節の泣き言はもう聞こえない。



いつも通り、そこは庭園だった。例えこの場所は自分が息絶えようとも何も変わらない。無常な空間だ、と思いながら首を傾げ視界を動かして少女を探した。夜に会うと言う約束のとおり白いテーブルに座っていた。少しの沈黙を置いて自分に気が付いた少女は、双眸を丸くして駆け寄ってくる。少女が何を言っているのか、気付けばすでに聴覚は自分の身体から去っていた。良く分からないが、渡さなければ。とポケットを探るが上手く腕が動かない。彼女が腕を抑えるが、それに構わず銀色のネックレスを取り出す。拙い声で「あげる」と言った。潰されたと思っていた喉は、庭園が哀れんで自分に与えた好機か、回復していた。だがどうせ、じきに息絶える。

「僕は・・・・」

 君が好きだよ、否、好きだった。もう話すことは無いだろうけれどと、瞼を閉じる。
 凪いだ風が吹き渡り、心を楽にした。閉じた瞼を再び開ければ雨だと思っていたのは彼女の瞳から零れた涙滴。月光を吸収して銀色に光るそれに目を奪われる。なかせてしまったことに、小さく「ごめん」と言った。最後の最後で謝るのも情けない話だが。
 (返事・・・・聞けなかったな)
 聴覚と動くことを奪われて、今は声すら剥ぎ取られた。視界が暗闇に埋まり尽くされるその瞬間、耳に届いたのは澄み渡る彼女の声が。

 ―――なんで、こんな・・・・私は・・・こんなに君の事を・・・

 ぷつり。と音を立てて何かが爆ぜる音が耳をつんざく。
 ああ、とうとう聞くことができなかったね。と蝶が嗤った。
























 最期の最後まで あなたの口からは一度も紡がれなかった言葉