わかっている。それは幻だ。



 ある冬のことだ。その日は酷い雨風が吹き荒れていて、首に巻いていたマフラーも着ていたコートも目も当てられない程に濡れきっていた。降水確率が九十%だというのを天気予報で知っていたのに、と傘を持って来なかった自分自身を怨む。勝手知ったる街中の急激な坂を下ると、そこには今まで見掛けなかった店が建っていた。辺りは住宅地が続き雨宿りする場所が無かったから、その店を見つけた瞬間にその場所へ走って行く。
 無記名の看板に、古臭い木造建築の店だった。廃墟なのか、屋根下で雨宿りしている内に中を覗いたが人の様子はない。木枠に嵌められた曇りガラスの向こうには埃まみれのガラス瓶やら、床に散らばる夥しい数の枯れ切った薔薇があった。見ているだけでも気味が悪い光景だ。そこから視線をはずし片手で傘を振って雨粒を落としつつ、もう片方の手で服に染み付いた雨水を払った。

 「ついてないなあ・・・」

 そんな独り言を呟いてしまうほど、本当についてないと思う。こんな大雨に傘を持って来れなかったばかりか、鞄から取り出した携帯電話は水没して画面が正しく表示されない。ふ、と空を仰ぐと、そこには予想通りの雨雲に包まれた空が広がっていた。所々に黒味を帯びた灰色の曇天。凄まじい速さで追い立てて来た雨脚も通り過ぎる雰囲気は全く見えなかった。豪雨と言うのか、暴雨と言うのか。朝に見たニュースの言葉を思い出そうと思っても、頭の中は霞み切っていてどうやら無理そうだ。時間は午後八時、家に帰らねばいけない時間はとうに過ぎていた。
 中に誰かいないだろうか、と錆びれた戸を引こうと手を掛ける。すると先程まで降り注いでいた篠突く雨は消えていった。鼠色の雲が消えた今、空には満月が燦々と輝いていた。突然のことに驚いて空から目を話せずに入ると、戸が意思を持ったかのように自然と引かれた。開いたそれに驚きつつ(何が起こったんだろう・・・)と不安と好奇心の入り混じった気持ちでその店に足を踏み入れた。数分前に見た薔薇も、割れたガラスも消えていた。



 「誰かいませんかー、雨宿りしたいんですけど・・・」
 入り口付近で呼びかけても、誰の声も聞こえなかった。本当に誰もいないのだろうかと奥に足を進めると、そこには暗闇が広がっていた。ただし、一つのランプの灯りを除けば。ランプが照らす部分は極めて小さかったため、遠いその場所行くまで殆ど手探りで歩いていった。ランプの光に濡れたのは木目がくっきりと見えるドア。格子が付いているそれはまるで監獄の物の様だった。やっとの思いでそのドアに触れる、格子の向こうに見えたのはやはり暗闇だ。

 (引き返そう、もう何も無いだろう・・・・)

 と背を向けようと視線を逸らした瞬間だ。視界の端で眩いばかりの光が舞っていたのは。見間違えか、と驚いて再び見てみるとそこにはたしかに光源があった。金箔が貼られているかのような羽と、それを縁取る暗闇に溶け込むような黒の綺麗なアゲハ蝶。それの辺りには電飾を漂わせたような灯りが点っていた。否、電飾といっては失礼だろう。電飾というには安すぎる、それらは自然が生み出した柔らかい色をしていた。
 それに惹き付けられる様にドアノブに手を掛ける。だが頭の中では進もうとする体の意思とは反対に、心が「行ってしまったら行けない」という判断を下していた。分かっている。進んだら何があるのかも分からないし、あんな蝶は存在しない。あれは幻だ、決まっている。だがそう思っていても、その美しい造形から目を離せない自分がいた。

 綺麗なもの、美しいもの、何時の時代も人はそれらに惹かれた。それが遡れば唯の硝子玉だったり、絵画などの美術品だったり、果ては人物だったりもした。それらはヒトの欲望を掻き立てる、目に見えるはっきりとした物だ。だとしたら今自分の眼前にある蝶も、そうではないだろうか。
 橙色の灯りを浴びる自分の身体は、雨に打たれ冷え切っていた。水銀が自分の動きに比例して揺れていた。口から零れる息は冷たいまま、身体を巡る欲に対して頭の中で独善的な理由を押し付けていた。それらは今手が置かれたドアノブを握るためのものだ。
 























そして僕は幻に手を伸ばした。