君の鳶色の眼差しが、今でも忘れることができない。




カチリ、と独特の金属音を出して時計の針が時を刻んだ。所々ワニスの剥げた厳しい木製の置時計が店の奥にその身を潜めている。先程の音はあの時計の音だった。カウンターから見えるそれは、かなりの年季を漂わせている。それに負けず劣らずこの喫茶店そのものがすでに過去の遺物と化そうとしている。マスターが死んだら潰れるというこの店は、彼の年齢を見るに後数年で取り壊されるかもしれない。

「紅茶、冷えるよ?」
「わかっているわ、そんなこと。」

目の前の彼と、私が座っている店の一番奥の席。そこは窓の多い小さなこの店で唯一、席全体を壁に遮られ外から見えない場所だった。テーブルの上にはまるで左右相称のようにアールグレイの注がれたカップが整然と置かれていた。が、少し経て運ばれたシフォンケーキが均衡を崩してしまう。それらは不均衡な姿となった。
一緒に喫茶店に来たからと言って、彼と私の関係はそれ程親密なものではなかった。第三者からすれば長い時間、何も話さず時折気づいたように一言二言だけ言葉を交わす私たちは、異質に見えるかもしれない。会話しないのは、あくまで私自身の問題だ。彼には、何の言葉も空を切るように伝わらない。彼は張り付いた笑みを崩さず、自身の感情を露わにしない、だが相手に不快感を与えることはない。次元が違うかのように超然とし、存在する相手に、私が意味もなく腹を立てているだけのことだ。掴み所のない目の前の少年を、心の底では理解したいと思いながらも、それが不可能であるということを認めたくないのだ。

まるで子供じゃないか、私は小さく呟いた。


「そういえば、私がこのあいだ拾ったユッカ・・・・どう?」

外の風景を眺めていた彼は、ゆっくりと視線をこちらに向け微笑を浮かべた。唐突に私が会話を開始したことに、特別驚く様子もなく口を開く。

「ああ、君が持ってきたあれか。うん、順調に育ってるよ」
「そう・・・今度、見に行くわ」

花屋の裏で捨てられていた小さなユッカ。先週あたりか、店員に尋ねて貰い受けたのだ。だが考えず貰ってしまったそれに手が負えず、無責任だが、彼にユッカを預けた。大事にね、と言葉を付け足して私は視線を落とした。
彼がもつ庭園へ招待されたのは、私が初めてだったらしい。以来私はそこへ幾度も足を運び紅茶の馳走を受けた。テーブルには紅茶と、時々私が作った菓子が並べられる、と言った具合に。以前に「どうして私を招待したの」と尋ねた。すると彼は「どうしてだろうね」と上手にはぐらかした。故に、今でも私を午後の茶会に招待した相手の意図がつかめなかった。今日はたまたま、「庭園だけでは」と言ってこの喫茶店でお茶をすることを彼に約束を取りつけただけだ。提案した私自身が今みたいな顰めっ面でいても、彼は何も不快に感じてはいないのだろう。


「ユッカ、どうして拾ったの?」


今度は、彼から会話が開始された。首を傾げて興味深そうに(素振りだけかもしれない)目を細める。一旦は顔を上げたが、相手の眼球に自分の姿が映ることに嫌悪を感じて、視線を再びアールグレイの面に向けた。
「何を、今更。私が拾うのがそんなに意外なの?」
「意外じゃない、と言えば嘘になるかな。単に気になって聞いてみただけだよ。
 気を悪くしなくていい、別に非難している訳じゃないしさ」
「・・・・・・口調が、非難してるように聞こえたわ」
「非難、されたいの?」

 彼は心を見透かすような瞳を、こちらに向けた。彼と目とあわせぬ様に「いいえ」、と半分は自分に言い聞かせるように応えた。目の前の成人すらしていない少年は、あたかも人の心理を透けて見るかのような言葉を吐く。それが真実か否か、自分ですら気づかないことを、彼はいつも顔色を変えずに言ってのける。推測するに、そんなことを言われるのは私ぐらいなものだろう。大抵の人は、簡単に自身の心に入り込む相手を快く思わない。人当たりの良い彼は、自身の行為をちゃんと理解して使い分けているのだろうと思った。

 そんな彼に言われた、「何故あれを拾ったのか」という問いに関する答えを、未だ見つかる気配すらさせないまま、模索していた。表に出ることのない解答は、未だ浮上せず。ただ単にその日、雨に濡れて狭い路地に孤独に置かれたユッカに、同情しただけのかもしれない。若しくは、あのユッカに、自身の面影を見たからか。

「夢かもしれない」

ぼんやりと力なく、誰に宛てるともなく呟いた。音とするには十分だったが、言葉とするには余りにも不足なそれは、流れるレコードの音楽とともに滲んで消えた。ふと気づけば、外には風花が降り注いでいた。暫く眺めて、ガラスの向こうの天候が帰りに支障をきたす程ではないと見て一息つき、紅茶を口に含む。
アールグレイは、すっかり冷え切っていた。
放って置いたシフォンケーキにフォークを滑らせる。口に運んだそれは、甘味で口内を満たした。それは「美味しい」と感じられたが、それでも一向に気分が晴れない。食べるのを止めようかとも考えたが、それではマスターにあまりにも失礼だと思い直した。暫くして食べ終えると、フォークを小皿に乗せた。
 仄かに香る紅茶の匂いが鼻腔を掠める。本来ならば安らぐ空間であるはずのこの場所は、今もって幾重にも張られた糸(それが緊張であったり疑心であったりするのだが)が心の緩みを許さない。だが数分後、この空間は崩壊の音を響かせる。
 「出ましょう、今日はおごるわ」
 いつも、ご馳走になっているから。と言葉を付足して支払いに向かった。吊る下がっていた埃の見える橙色のランプが揺れる。眼を刺すような光が、痛い。




 古めかしいドアを開けると、金の剥げた鈍色のベルが、からりと声を上げた。開けたドアの隙間から差し込んだ風は、冷気と共に私の顔を覆う。外を出ると、舞い落ちる小雪に街灯が反射し微光を放っていた。
 「じゃあ、気をつけてね」
 社交辞令でも述べる様子で言う彼に対し、憤りを込めた視線を送る。眉を顰めた私を見て、困ったように笑みを零しながら又も見透かすように言葉を吐いた。

 「疑わなくていいのに」

 酷く鮮明に、それは空気を突き抜け耳朶に触れる。風花がちらつき視界の明瞭さも、もしかしたら声すら通り抜ける車の音にかき消されそうだというのに、何故こんなにも彼の言葉が響くのだろう。唇を噛む勢いで引き締めると、目の前の少年は普段と変わらぬ笑みを再び浮かべて、こちらに背を向けた。遠ざかる背中を、じっと見つめる。


手を伸ばそうか、(馬鹿らしい、届くはずがない)
腕を絡めれば、彼も止まるだろう。(いや、きっとその腕を事も無げに振り解く)
きっとこちらを向いて、困ったように笑うのだ。(その眸を、満足げに細めながら)


 終わり逝く空間に、彼の背中に、別れを告げて背を向ける。
 叶うはずも無い手を伸ばすなんて、空しい真似など出来るはずが無い。



―――少女は、力も無く溜息を吐いた。木陰に移動した彼女は俯いたまま動かない。風花がはらはらと舞い落ち、少女の頬に落ちた。ぽたりと何かが地面に落ちた。

頬を流れたのは風花か、それとも彼女自身のか。






























鋭い葉先が、何かも拒絶する。彼は、ユッカのような人だった。



Yucca(羅):ユッカ