彼女への今できる精一杯の笑み。それしかできないのは、
自分の許容範囲を超えた、真実が。 






 甲板に、潮の匂いがする。頬を生温い風が撫ぜつける。空は夜陰に覆われ、唯一の光である月は冴えつつも、瞳に強烈な光彩を与えるそれは密雲に蝕まれ、いまや微かな光しか地上へ与えられない。闇に吸い込まれるというよりもむしろ、漠々たる雲海の彼方に呑まれるような感覚があった。数時間前の戦闘後から思考は濃霧に包まれ、現実と幻とを行き来しているのではないかと思う程。これまでの事柄を羅列させながらもアスランを殺した瞬間が数回に渡り、蘇る。明らかに自分自身では処理しきれない現実に混乱している。何も考えまいと茫然と艦内に足を進めるうちに、甲板へたどり着いた。不意に眼前に佇む人影に、ひく、と喉が音を鳴らす。なぜこんなにも胸に迫る感情を再び感じなければならないのか、それは目の前に佇む少女への畏れなのか、それとも焦燥の感なのかはわからない。

 「シンも、来てたんだ」
 首を小さく傾げて、彼女は微苦笑した。

 深紅の髪が夜の帳が下りたこの空間で、潮風に揺られて靡く。月の微光に晒された均整の整った顔が映える中、茫然と覚束ない意識で、彼女の儚さすら覚える笑みが瞳に焼き付くようにも思える。まるで未知なるものでも見るように、しばらくその綺麗な笑みを浮かべる彼女を凝視していた。
 時々、彼女に全てを受け入れるような温かい優しさを覚える。喩えるのなら、月のようとでも言うのだろうか。ただ、かのラクス・クラインのような万人を包み込むものではない。半欠けの、下弦の月。その灯火を与えながらも、時には鋭利なナイフのように強い。自分があの時守ろうとした少女とは、まるでかけ離れているはず。
 月光の恩恵を受けるルナマリアは、その姿に普段は見せることの無い玻璃のような儚さと、悲哀の深い笑みを自分の眼前に流露している。

 「今日、私出れなくてごめんね。今度は私も出れるから・・・・大丈夫だった?」
 ゆっくりと近づく、彼女の足音。先程とは随分違う彼女との距離をどうとも思うわけでもなく、ただ今回の戦闘で誰と会ったか、何を言われたか、それをどう思っているか。それをこの少女にどう理解してもらえるのだろうか、それとも理解しない方がいいのではないかと思案していた。ゆっくりと自然に顔に出来るだけの笑みを浮かばせる。

 「・・大丈夫だよ、大丈夫だから。心配しないで、ルナ」
 それだけ言って、背を向けようとした。これ以上話せなかった、彼女になんて言えばいい。アスランが生きていたと、メイリンも、もしかして生きているのかもしれないと、彼らはアークエンジェルにいるとでも?言えるはずないじゃないか。今の彼女に、そんなこと。
 「待って、シン」
 ふと手が握り締められる。振り向くと、彼女は暫く先の手すりまで自分をぐいぐいと引っ張っていった。潮が、余計に近く感じる。深く呼吸をし、息を整える。
 「心配ぐらいさせなさいよ、また何か悩んでるんでしょ」
 からかうように笑って、彼女は励ますように自分の背中を叩く。僅かに反抗の声を出すが、それも戯れの一つとして消えていった。ふと顔を俯けるとヘドロのような色をした海が広がる。
 何が欲しかったのか。胸の中に淀むどす黒い泥の水溜りが波を打つように、自分の内面が抉られるように思えた。他人が踏み込める許容範囲を大きく超えるその言葉に、意味も解せぬままでいる。
 ただ、平和な世界が欲しいと思った。
大切な人が笑顔で居られる世界を、手に入れる為の力も。
 

 「――――――・・・・・俺は約束を守る。俺がルナを、守るから」
 自分に言い聞かせるように、シンはその言葉を繰り返した。唐突に放たれた彼の言葉におもわず面をくらう。目を奪われたように、彼を見詰める。自嘲気味に微笑む彼の手を、包み込むように握り締めた。彼は自分と手を繋いだまま背を向けて、こちらと視線を交わすことを閉ざそうとすることに思わぬ焦燥の感に駆られて、引っ張られそうになる中、思わずその場に立ち止まった。
 ちがう、ちがうんだ。君に、そんなことを言わせたいんじゃない。
 「あんたは、一人じゃないでしょ・・・・・・・・・シン」
 漸く吐き出すことの出来た言葉に、彼は弾けたようにこちらを向いた。彼の弱い面を見た気がする、驚きを隠せない表情と、解けそうになる手。ゆっくりと微笑みかけ壊れそうな目の前の少年を抱き締める。背幅は自分なんかよりも大きく、しっかりとした体に驚いた。今まで意識しなかったせいか、やけに男女の差を感じる。肩に埋まる彼の顔は確認することは出来ない。
 まるでお母さんみたいね、と心の中で微笑ましく思った。
 すると抱き締める自分の手を払い、彼は逆に私を抱き締めた。理解するのに追いつくことの出来ないまま、いとも容易く腕の中に入り込んでしまう。これじゃあまるで逆じゃないかと内心、僅かな不平を覚えた。
 ゆるゆると、抱き締められた衝撃で思わず瞑ってしまった瞳を開く。血潮のような深紅に染まる服と、夜陰に呑み込まれてしまいそうな黒髪。彼が震えているのだと、自然に解かった。壊れてしまいそうな面をもつ彼を、自分は支えることができるのだろうか。

「―――私が、あんたを守るわ」

  ゆっくりと自身の身体を引き離し、ゆるゆると彼の腕が垂れていく。宥めるように頭を撫で、彼の掌を手にとり小指を絡ませた。それを皮切れに言葉を続ける。

 「約束ね、シン」
 だから、君の悩んでいることをせめて自分にも分けて欲しい。その思いを込めて言葉を紡ぐ。自分に出来る限りの笑みを浮かべる。出来るならシンと一緒にはいたかった、だが今はもう消灯近い時刻だと思い、「私、行くね」とだけ言葉を残して今はもう一人だけになる静寂の部屋への帰路を辿ろうとした。ふと、絡めた指を離そうとする自分の掌ごと握り締める手の温もりを覚える。振り向かないまま、互いに視線を交わすことすら叶わぬままで、目を細める。彼の前でこれ以上悲しい顔は晒せないと、微笑んだ。
 






「・・・・・・・なんで」
暗い闇が、剥がされていく。
自分を認めてくれたアスランは、アークエンジェルで生きている。裏切り者なのだと、彼は何もわかっていないのだと、思いこんできたのに。平和の為、議長の言葉を信じてきたはずなのに、何故こんな迷いが生じるのだろうか。暗闇の中で目隠しをされた童子のように、ひどく孤独でもあった自分に、温もりを与えてくれたルナマリアがこの混迷の世界で、尊く思える。何が正しいのかわからない、胸に募る何かが、今もって考える余裕を与えない。喉が焼け付き、思考が自身の中に沈む。言葉を留め、発することすら果たせない。漸く、一言だけ吐き出した。




「俺は・・・っ、ルナを・・・・・・っ!!」
悲痛な、僅かに嗚咽を交じらせる彼の押さえ込まれた叫び。全身が締めつけられるような感覚と、生温い潮風が辺りを満たすのを感じた。
私が守ると言ったら、きっと君は止めるのだろう。その思いもあったからこそ帰ろうとしていたのに。僅かに移した視線の先で震える彼を見て、消灯のせいにしてこれから去ろうとした自分が、姑息に思える。君は私を守ることが、君自身の均衡を保つことかも知れないけれど、なら。

































私が君の傍にいることが私にとっての一つの均衡を保つことなのだと。
君は、知っているのだろうか。

Versprechen (独):約束






+あとがき+
「守る、守らない」。「戦う、戦わない」。
が気づけば自分のシンルナ創作の中で結構使ってました;
38話のシンがルナを「守る」と言ったのが何より印象的でしたので…!
不謹慎かもしれませんが、37話が一番好きだったりします。
今回は、自分の趣味思い切り反映させてしまって申し訳ないです(汗)
43話では、シンがルナに笑いかけたシーンは短いですが;
久々に、シンの笑ったところを見たような気がします。
本編がシリアスなせいか、捏造話も、シリアスみたいなの書いてます。
最終話辺りには、2人の笑顔が見れたらなぁ・・・