―――――夜。







 夢を見て目覚めると、体中が締め付けられるような感覚と、静まり返った部屋。日のあたらぬ夜陰の中で、室内を隔てるものがないのがつらかった。現実と夢がひっくりかえり、目を開き、覚醒している自分が夢のようにも思える。残夢の霧は徐々に晴れてしまい、その空気すら心に残さない。
 目にみる現実。幻とも思える幸福な夢と、今との相違。それがどうしようも無い憤りを募らせる要因だった。あの子は――メイリンはここにはいない。ただそれだけの言葉がこの部屋が何故、水を打ったような静けさを保っているかということを理由付けてくれるのだろう。
 離愁にも似た切なさ。自分にとってあの子は、自分は“故郷”をもっているのだという証をもつ、肉親。故郷から離れた自分にとっての一つの故郷でもあったのだ、彼女は。だからこそ、私は一番彼女を知るのは自分なのだと、そう思っていたのに。彼女は行ってしまった。私に、何も言わずに。彼女を失ってしまった今、あれほどにも慣れたこの艦の一部が、時折、異国のようにも思えてしまう。

 涙の浮かんだ目尻を拭う。
 この部屋にいたくない。そう思って飲み物を買おうと廊下へ足を向ける。
 煌々と照らされた通路を歩くうちに、視界が反転した。





 「・・・・・過労、ですか?」
 シン・アスカはそう問い直す。
 相手は医務室勤務の男性で、両者とも沈痛な面持ちだった。

 ルナマリア・ホークが倒れた。

 この事実を知って、急いで運ばれた医務室へ走った。外はもう深夜だ。彼女は、通路で倒れていた。通りすがったクルーが運び込んできたらしい。今はベッドの上で眠っている。曰く、度重なるストレスがそれを引き起こしたらしい。当然その理由は彼女の妹―――メイリンがいなくなったことが原因にあることは、目の前の男性も黙認していた。

 許可を貰い、彼女がいる場所へと向かう。
 闇に吸い込まれるような感覚を覚えながら、ベッドに横たわる彼女は弱弱しく、普段は見れないだろうと思いながら、その傍の椅子に力もなく座りこんだ。夕闇に溶け込んだような彼女の髪。またそれとは逆に、浮かぶような白い皮膚。

 もうこんなことはいやだと、もう悲しんで欲しくないと、思った筈なのに。

 自分が殺した、彼女の妹と彼女の慕っていた上官を。
 アカデミーからの知り合いでもあったメイリン、自分も慕っていたアスランを、殺した瞬間が今になっても夢にでる。ステラが死ぬ時、家族を失った時。その全てが自分を責め立てるようだった。
 これ後悔と呼ぶべきなのか判らない。ただ記憶に残るのは、レイが放った「大切なものを守れない」という言葉。この状態が続くと言うことはもしかして、目の前の少女を、自分は守れないかもしれない。その判断は否応なしに弾き出される。
 眠りながら、目の前の彼女は涙を流していることに気づく。 
 ゆっくりとそれを拭ってやり、手を元に位置に戻した。
 

 「・・・・・・・・シン?」

 暗闇の中で、彼の存在を確認する。悲哀をこめた彼の血のを連想させる深紅の双眸が、じっとこちらを見つめていることを、そしてその先には自分がいると言うことを、しばらくして理解した。上半身だけを起こして虚ろとした視界が徐々に晴れていく。此処は自分の部屋ではなく、医務室だということが分かる。
 「ルナ・・・・・・・・目、真っ赤だ」
 そう言われ、初めて気づく。急いでそれを拭い、どうしてここに私は居るのか、と尋ねる。すると、「過労だってさ」と短く答えて、男は頭を垂れた。疲れたのか、それとも泣いているのかは分からなかった。髪の合間から表情を見ることはできなかったし、なにより部屋がほとんど、何の光も持っていないからだ。何をしてやればいいのかわからない、声をかけることもできない。あんなにも一緒にいて、同じ時間を共有したというのに。彼の項垂れた姿をただ凝視することしかできなかった。

 ただ、夢を見た。とても、とても幸せな夢だった。
 皆が笑い、争いはとうに消え果て、胸が満たされるような幸福が包む、世界。自分の妹も、かつての上官も、共に戦った戦友も。その場所は、ひどく静かな世界でもあった。


 そして、顔を上げる。苦痛を孕む引きつった笑顔で、彼は口を開いた。
「ゆっくり寝なよ、俺、ここにいるから」
 嫌だったら、出て行こうか?と彼女に尋ねと、相手は首を横に振った。互いに一息つくと、手の甲に温かいものを感じる。何だろうか、と視線を下へ向けると、それは彼女の手だった。自分より少し小さな白い手が、自分の手の甲を覆っている。それを恥ずかしいと思うことも、また振りほどくこともしなかった。伝わる温もりがひどく心地よかったからだ。確かに彼女は生きていると。自分の目の前で、腕の中で、死んでしまった人のように冷たくはない。そしてまた、自分が殺してしまった人のようには―――――
すると突然、彼女は口を開く。


「シンは、起きたらそこにいるの?」


 その言葉に、弾かれた様に彼は顔を上げた。
 驚き、苦痛、戸惑い、その全てを抱える表現し難い相手の表情。別に、寂しい 訳でもからかうわけでもないのだ。ただ、身近な人間が死んでいくこの戦争の中で不確かな各々の命。実際、数時間たっただけで妹は死んでしまった。なら、今から寝て朝を迎えたとき。一体誰が死んでしまうのかという思考がよぎっただけだ。おそらく、私は今、あまり好い表情をしていないのだろう。目の前で佇む相手に、「ごめんね」と自嘲を含む声で謝った。

 心臓が鼓動を早めている。のどが焼け付いたように声を、音を、発することを許さない。背筋を冷え切る何かが伝い、全身が凍りつくようだ。目の前で困ったように笑う彼女が放つ言葉が、突き刺さる。口を開いたまま、唇が震えるのを覚えた。それは怯えなのだろうか。自分と然程、歳も変わらぬこの少女にか、それともその言葉に?
 朝。もしも彼女がメイリンのように脱走でもしたのなら、自分は追いかけるのだろう。もしかして、また殺すのかもしれない。必死の思いで手に入れた“力”が、彼女を傷つけるのかもしれないと。それか、いつ戦闘に入って自分は死ぬかもしれない。だが、それは彼女も同じことだ。彼女は、もしかしてそれが言いたいのだろうか。
 自分は、ここにいる。生きている限り。君が俺を、軍を、裏切らない限り。

 「俺はここに、いるから。だから・・・・・・もう寝なよ、疲れてるんだろ」
 手を握り返し、また苦痛を無理に作った笑顔で埋めてしまった表情を浮かべる彼を見て、僅かな後悔を覚えた。手に感じる彼を体温が、ひどく尊く思える。糸が切れた様に視界が霞み、体中が重く感じた。引き寄せられるように再びベッドへ背を預け、繋いだ手をより強く握り締める。それだけが、唯一の絆のように見えてしまったからだ。彼を離してはいけないと、仄かにそう感じた。自分が離してしまったら、孤独のままに君は死んでいくのかもしれないと、根拠も無い想いが込み上げて来る。今、自分の手を握っていてくれる彼を、自分を護ってくれようとする彼を、今度は自分が守るという想い。
揺らいでいく思考に、視界に、逆らうことはできずに瞳を閉じる。自然と、口から言葉が零れた。


 「守るよ、私が・・・・・」
 まどろむ意識のうちに成した彼との誓い。薄れいく意識の中で、繋がれた手が徐々にほどけていくのを感じた。

 
 ほどけまいと、この手を離してはいけないと。彼女の手を強く握り締める。
 外では闇が深まり、ドアを開ければ朧な明かりがこの部屋に差し込むのだろう。彼女の姿は不鮮明に見える。繋がれた手のみ、互いの存在を明るみにしてくれるようだ。
 繋いだ手を離し、立ち上がってドアを僅かに開ける。彼女の眠りを妨害しないようにと、ほんの僅かな光を差し込ませただけだ。そして再び、彼女の手を握る。僅かな明かりでも、不鮮明だった空間の一部の輪郭を明確にさせるには十分だった。
 ふと、ルナマリアの目元に涙が浮かぶのが見える。それを壊れ物でも扱うように、そっと拭った。

 自分は約束を守ると、だから、どうか君は裏切らないで欲しい。
 


























 朧げに差し込む光が、その一滴の涙を淡く照らした。




Nacht (独):夜