今なら理解できそうな気がした、本の中に棲む少年の思考が。



――思うに愛情と憎悪は紙一重なのかもしれない。嫉妬や羨望に加え独占という欲求はすべてその感情に帰結する。しかしその方向が人間へと向けられる時、人は理性を働かせなければならなくなる。相手を手中に収めたいと言う点では収集家と変わらない。動物愛好家が自身の家に剥製を置くように、昆虫愛好家が美しい蝶にピンを刺すように、そこには同一の感情があるのだろう。
そうして、少年は少女を手に掛けた。生々しい鮮血を全身に浴びながら、彼女の首根に突き刺したその果物ナイフを握り締め立ち尽くしていた。心中では夥しいほどの歓喜の声が湧き上っている、ようやく手に入れたのだ。此れこそが己の求めたものであると、少年は独り屋根裏部屋で恍惚とした表情を浮かべながら抑え切れぬ笑いを吐き出した。見たか、あの少女の慄き慌てふためく姿を。陶磁器のような白い肌も、柔らかい亜麻色の髪も、これで衰えることは無いのだ。
愛していたからこそ、彼は少女を殺したのだ。その命が己の手中に収まる事こそ、その感情の行き着くものだと考えた。人間の心が移ろい易い事を其の身をもって知っていた少年は、永久に彼女の心を・・・
―――

パタン。

「随分と、くだらないものを読んでいるのね」

どんなに寂寥感の満ちた切ない小説も、荒々しい戦いに飲まれた世界の書かれた小説も、本を閉じれば終る。読みかけの(しかも区切りが良い訳では決してない)本を閉じ、辺りを眺めた。色とりどりの花が咲き乱れるこの庭園の主の持ち物にしては、中々の愛憎劇ではないか。書斎から借りた赤い表紙の金箔で彩られた模様が映えるその一冊は、神学を勉強していた少年が愛ゆえに下宿先の娘を殺してしまうと言う内容のものだった。神への冒涜と知りつつもその感情の矛先を収めることはできず、と持ち主のあの男には余りにも不似合いな、感傷に満ちた盲愛的な内容だ。掴みきれない人間性に加え、張り付いた笑みを浮かべる彼がよくこういうものを手に入れたものだ、と驚いた。

「人に本だけ残して自分は居眠りなんていいご身分ね。お茶会が面倒になったの?」

その疑問を投げつけても、相手が惰眠を貪っているのだからどうしようも無い。その顔は開かれた本に覆われて覗くことは出来なかった。日差しが普段より強いせいか、そのままでは眠れなかったという理由は容易に想像できる。
緩やかな速度で雲が流れていく、燦燦と光る太陽は片身を流雲に隠していた。春を過ぎて夏へと向かう気候の中、桜は青々と茂り桃色だった頃の名残を花弁として辺りに残していた。その一枚を掌にのせて、ふっと息を吹きかけた。
隣で眠る男は、掴み所がなかった。その行動も言動も捉え難い側面を孕んでいて、白と黒の境界線に佇むような目の前の少年は超然とした存在だった。街を歩く人々とは掛け離れた異質な空気、笑みを崩さないその姿を憎む反面でまた、寂寥感も感じていた。


「でも、こうして隣で寝ていてくれるってことは、ある程度認められているってことかしら?」

そうしてまた、意味を持たぬ言葉を漏らす。誰にも嫌われず自身の弱味も表す事の無い、感情が高ぶることでその人間の器を見るわけではないが、彼のそういう場面は一度たりとも目にした事は無かった。眠るという無防備(だと思いたいだけ)な姿を見せてくれたと言うことは少しは信用してもいいのかもしれない。と、思いかけて思考を留める。簡単に信頼してはいけないと、直感がサイレンを鳴らしていた。
ふと視線を空から下ろす。静かに眠る彼は、消えてしまうのではないかと錯覚する程に穏やかな寝息だった。目線を一点に集中している途中に彼の首が目に入る。日焼けしていない様子で白かった、手の甲をのせると通常の体温にしては低い温度が肌を通して染み込む。不意に先ほど読んでいた小説の欠片が脳裏に過ぎった。

――愛していたからこそ、彼は少女を殺したのだ。その命が己の手中に収まる事こそ、その感情の行き着くものだと考えた。

手に入らないからこその欲求。彼が殺したかったものは本当に少女だったのだろうか、本の結末を見ぬ自分に到底理解できるはずもないと知りつつ、なぜかこの瞬間は少年の心情を汲み取ることが出来そうな気がした。確かに、目の前にいる少年は捕らえる事は出来ない。恐らく物理的にも精神的にも服の裾すら掴むことが出来ないだろう。だが、今はどうだろう。今、目の前の相手は静かに寝息を立てている。

(その愛ゆえに殺す、か・・・・今なら、)

そっと彼の首を両手で包んだ。ひんやりとした温度が指先から伝わる、それを合図に力を込めた。緩やかな速度で、心の奥底で「起きて」と叫ぶ声が胸の内で反響する。止めようとしても体が命令を聞かない、まるで川の奔流に流されるかのように力を入れる速度が加速する。最初空いていた手の平と彼の首との間隔はもう無かった。(このまま殺してしまうのだろうか)と思っていると、頬を何かが伝う。彼の口許にそれが滴り落ちるまで涙だと知りえなかった事実に眉を顰める。手に込められた力が緩むとは無い、緩慢な速度とはいえいずれ苦しみに至る境界線を越えるだろう。何故止められないのだろうか、と思案する。本の中の彼もまた、ナイフを握った其の瞬間から自分の行動を抑止できなかったのだろうか。

「・・・・・う、」

呻き声が上がる、その瞬間今まで首元を包んでいた手が反射的に離れた。音にもならぬ叫び声を上げてその場を走り去る。心臓が早鐘を打つ、鼓動が悲鳴を上げているのが分かるほどに自分は動揺していた。
煉瓦造りの壁に寄りかかり深呼吸をした、焦点の合わぬ思考を落ち着かせようと努力するも空しく散っていく。そっと壁に潜みながら遠くから彼の姿を見つめるとまだ眠っている様子が伺える。どうやら気付いていないらしいという事実に安堵の息を漏らした。しかしまだ激しい動悸は治まらない、少し休めば直るだろうと少女は屋敷の中に入った。


その姿を横目で見て、相手が自分の姿を確認できない位置まで来ると少年は本を手に取り身を起こした。少女は安心しているだろうが、最初から少年は目を覚ましていた。隣に少女が着た其の瞬間から寝ている振りをしていたのだ。少年は赤い本に目線を落とし、口許についた涙を指で掬って満足げに笑みを浮かべた。

「やっぱり、君には殺せないよ」

本を退けてでも、君の泣いている顔を見ればよかったかな。と独りごちて、溜息を吐いた。家にいるであろう彼女の元へ歩き出す道の傍らでアネモネが風に寄り添い、揺れていた。首元に残る赤い、締めた痕に触れ笑みを浮かべながら。


少女は気だるい身体をソファーに委ねた。横になった視界から覗く磨硝子の向うに覗くアンティークの人形。思えば彼との間にある壁は、磨硝子に似ている気がすると少女は思った。硝子と言えるほど透明でなく、石のような灰色かと言えば否と応えられる。磨硝子は、見えるようでその実体を完璧にはつかませない。恐らくは本の中の少年もこんな気分だったのだろうか、手に入れたくても壁がある、思いを伝えきれない感情の増幅が彼の背中を押した。では、彼が本当に殺したかったのは少女ではないだろう、それはきっと。





















愛しているから殺すなんて、なんて陳腐で愚かな理由だろうか。
(だってそこに潜んでいるのは、ただの醜い支配欲。)


Ego(羅):自我・我/「私