ゆるりと傾く西日がアカデミーに差し込む。胸のわだかまりが、未だ晴れない。






「見つけた」

呆れた様子で、ルナマリアが言った。その言葉は彼女の目の前でふてぶてしく座っている、シンに向けられたものだった。彼女の声に一時は振り向いた彼はすぐに顔を逸らし、視線を沈み行く夕陽に戻した。少年の紅く燃えるような瞳が夕日を受けて輝いているように見えた。少女は自身の話を聞く様子のない目の前の男に眉を顰め、彼のすぐ横に勢いよく腰を下ろした。その片手には「救急箱」と書かれたものの取手が握られていた。

「何しに来たんだよ」

顔を背けたまま言葉を切り出したのはシンの方だ。その言葉を聞いたルナマリアは大きなため息を一つついて彼の顔を覗き込む。

「喧嘩したって言うから、来てあげたんじゃない」
「・・・頼んでないだろ」
「なに拗ねてんのよ。はい、こっち向く!傷見せなさい」
「だから、頼んでないって言ってるだろ?!」

シンが声を荒げて振り向くと、そこには睨むように此方を見つめるルナマリアの姿があった。いつもの口煩くしている様子とは違う、彼女の真剣な表情に気圧されて彼女に投げつける筈だった言葉をぐっ、と飲み込む。
反則だ、とシンは思った。彼女が今みたいに風に自分と関わって来るのは今回のことを余程のことだと彼女が感じたから。こんな表情を隠しているなんて反則だ。普段見ない分、見たその時にどう対処すれば良いのか分からない。宛所の無い胸のわだかまりから彼女から再び顔を逸らし、背を向ける。西日が役目を終えたように落ちて行く。目に映る残照に、遠い故郷を思い浮かべた。


「はい」

唐突に彼女の声が耳朶に触れる。訝しむ様に顔を僅かに背後へ向けると、途端に額を冷たい物体が襲う。突然来た冷たさに驚いて「なっ」と声を出して、反射的に身体ごと彼女のほうを向いた。すると相手はその様子を見て面白そうに、「やっとこっち向いた」と笑った。当てられた冷たい物体を掴んでみると、それはいつも自分が飲んでいた缶コーヒーだった。目を丸くして目の前の相手を見ると相手は「今回はおごってあげる」と悪戯っぽく笑みを零しながら自身の片手にあるカフェ・オレの蓋を開ける。
ふと我に返ると、目の前で彼女が景気よくカフェ・オレを飲んでいる。その様子を見て怒っていることが空しくなって、彼女と同じ真正面を向いて缶コーヒーの蓋を開ける。口に含んだコーヒーは普段よりも苦く、喉を嚥下するそれは頭に響くような冷たさを感じた。

「で、どうして喧嘩したの?」
それかよ、と彼女の言葉をシンは聞き飽きた様子で返す。実際、教官にも言われ、周りにいた野次馬も零していた言葉だった。

「あいつらが悪い・・・あいつらは・・・っ!」
怒りに満ちた声で吐いた言葉は、当て所もなく虚空に消える。他人から聞いた「突然、シン・アスカが突っかかった」という言葉を一瞬でも鵜呑みにしてしまったことをルナマリアは後悔した。正面を見据えながら、シンは言葉を続ける。

 「・・・あいつらは、俺にオーブのことを言ってきたんだ・・・っ」

 抑えきれぬ憤怒が言葉の端々に滲む。その様子からどの様なことを言われたのか、ルナマリアは推測する。
このアカデミーにはある一部の人間に対して排他的な部分を持つ者がいたのは分かっていた。それがナチュラルに対してであるのが多かったが、恐らく彼が相手したのは彼が「地球から来た」ことが気に食わない者だったのだろう。地球から来たのに、エリートの証である赤服を着ているということが。それに拍車をかけたのは彼の態度でもあるが、やはり人伝てというものは頼りにならないことを感じた。視線を向けた相手は、黙り込んだまま真正面を見据えたままだ。おそらく今、心の中で様々なことを考えているのだろう。終わることの無い
彼は容易に嘘をつける人間ではなのは知っていたし、何より信頼する仲間を疑う理由も無い。そう考えていると、自然と口元に笑みが零れた。

 「・・・わかったわ、シン。もしまたそんな事言う奴が来たら私に言いなさいよ、
  私が相手するわ!」
 「別にルナには関係ないだろ?!」
 「関係なくなんか無いわよ。友達でしょ?」
 「そりゃそうだけど・・・・俺の立場はどうなるんだよ・・・・」

 恐らく彼自身でも気づかない程無意識に、いつの間にか彼の表情が柔らかくなっていた。本当に困りきった様子を見れば、今は彼の怒りが薄らいでいるのがわかる。今のうち、と言わんばかりに救急箱に入れていた傷薬を布に染み込ませて彼の頬の傷を撫でる。散々な文句が来たが傷を放置して置く訳にも行かず、治療を強行した。これで最後、と彼の頬に絆創膏を張る。

 「いらないのに」とシンが言うと、ルナマリアは笑って「シンは放って置いたらいつまでも治さないでしょ?」と言い返した。相手の表情に毒気を抜かれて、シンは目を細めた。
かなわないな、とシンは思った。ルナマリアが居てくれて良かった。気づけば、胸の奥底で渦巻く重たいものが消えているのだから。
喧嘩の原因は相手の言葉から始まる。「オーブ」の名を口出して挑発してきたのだ。それはちょうど白兵戦の実習の終わった後で今日の最後の課目だった。相手だった赤服の相手は忌々しそうに此方を見つめ判定が気に食わぬ様子で立ち上がった。判定は彼が気に食わなくとも自分の勝ちは明確だった。それが相手の虫の居所を悪くしたのは知っていたが、自分には関係ないと区切りをつけてその場を離れる、つもりだった。仲間の元へ戻った彼はこちらにも聞こえる声で口々に自分のことを非難した。彼らの会話に眉を顰めたが、今突っかかったらいけないと、自制していた。だが次の瞬間先ほどの声よりも一層耳に響いた「オーブ」と言う言葉。それに反応して振り向くと男の歪んだ嘲笑、胸の底で煮え繰り返った何かに「自制」は打ち消されていた。

そのあと教官に呼ばれ、今に至る。十数分前のわだかまりは、今はもう殆ど感じなかった。絆創膏を触れると、頬に痛みが走る。そこからまた会話がいつもの会話が始まった。傷口に触るな、とか余計なお世話だ、など他人が聞けば大よそ喧嘩の様にも聞こえるそれが。少し経って会話の一区切りついたとき、相手に聞こえない程度の小さな声で言う。

「・・・・・・ありがと、な」

顔を相手から逸らしてそう言う。するとポン、と頭の上に手の重みを突然感じて振り向くと、そこには綺麗な笑みを浮かべたルナマリアがいた。

「どういたしまして」

嬉しそうに、彼女は言う。



























夕間暮れの空を眺めながら、心の中でそっと彼女に感謝した。


Abend(独):夕方